あおぞら。

ただのサラリーマンの日常です。

会社という湯婆婆に名前を奪われたエンジニアたち

先日、「10年後の仕事図鑑」を読んだ。

著者はホリエモンと落合陽一で、個人的に二人とも好きなので、本屋に立ち寄った際に新刊コーナーでこの本が特集されていたのを見て購入した。

内容は、昨今そこら中で聞く「AIが今後の世界をどう変えるか」という視点で、未来の仕事を考るものになっている。
その中で印象的だったフレーズが「会社員は湯婆婆に名前を奪われた人達」だ。
僕が普段抱えていたモヤモヤを実に的確に表している言葉だと思う。

「湯婆婆に名前を奪われた」とは何なのか。それを本の中ではエジソンを例に挙げて説明している。
簡単に言うと、蓄音機を僕らはもちろん「エジソンの発明した蓄音機」として周知しているけれど、もしエジソンがどこかの会社の研究員だった場合、それは「○○会社の開発した蓄音機」、になってしまうということだ。


会社に入り二年が経ち、エンジニアとしてプログラムを書くことも増えてきた。
中には難しい要求や複雑な処理を実現しなければならず、頭をひねらせながら試行錯誤し、時には海外のサイトにも情報収集に行く(もちろん全て英語だ)。
そしてようやく書き上げた一つのプログラム。僕にとっては大事な大事な、自分の子供のような存在だ。
しかし、会社員として僕が作ったプログラムは僕のモノではないのだ。
それは会社の製品、会社のツールであり、著作権も会社のものだ。
社内ではまだ「あいつの作ったプログラム」くらいには言われるけど、世(会社の外)に出るときには僕の名前はどこにもない。

僕は大切な大切な子供たちの「親」でいられないことが、切なくてたまらなかった。
まさに「湯婆婆に名前を奪われた千尋」だった。


昨年、人手が足りず既存ツールの変更を外注に委託した。先日そのツールを再度変更する必要があり、僕が変更を担当した。

ソースを開いてびっくり。そこら中に外注担当者の名前がコメントアウトされていた。
ベテランエンジニアの人たちは
「外注の人はよくこういうことをやるよ。「俺が書いたぜ」と客にアピールしたいのかな」
と笑っていた。
僕はまさしくその通りなのではないかと思う。
その会社にソースを書いた人を明記する、という決まりがあるかもしれない。
しかし、これは名前を奪わたエンジニアの小さな叫び声なのかもしれない。