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むーみん協奏曲

ただのサラリーマンの日常です。

物理学は生きている

先日、会社の出身大学OB会による飲み会があった。

今年も出身大学から数人の新入社員が入ってきて、歓迎会をやったのだ。(私は幹事だった。)

在学中に顔見知りだった人などほとんどいないのだが、『同じ大学出身で同じ会社で働いている』と言うだけで話題には困らない。
話しは大いに盛り上がり、楽しい時間を過ごさせていただいた。



新入社員歓迎会ということなので、各々自己紹介をした。その際に同じ学科出身の1つ上の代の先輩が言ったことがとても印象的だった。

その先輩は現在うちの会社の製品の制御用ソフトを、C言語で作っている。
私がやっているのはアプリケーション系でJavaC#を主に勉強している(Cも勉強してはいるが、優先順位は低い)ため、少し畑違いといえばそうなのだが、近い境遇にいるということで勝手に親近感を持っていた。

『今はようやくC言語である程度自由にソフトを書けるようになりました。仕事の勉強はもちろん大切ですが、家では今でも大学時代にやっていた物理の勉強を続けています。
将来的に量子コンピューターの理論を理解したいと思っています。』

その言葉を聞いて私は胸の中の霧のようなものが晴れた気がした。

私にとって物理学は過去に学んだものとして片付けられていた。
自分にとって未知の分野で仕事をしなくてはならなくなり、その勉強が最優先だった。

しかし、過去の研究についてはずっと気がかりだった。
展示会に行けば太陽電池有機ELのあるブースを訪れて話を聞いたし、ドクターへ進学した友達からは自分のやっていた研究は今どうなっているのかと詳しく聞いた。


『この世の中を根底から支えている学問は何か』
という質問をしてみよう。あなたなら何と答えるだろうか?

物理学者はそれを『物理学だ』と答えるだろう。
確かに、この文明社会は難解な物理の法則によって成り立っている。

数学者はそれを『数学だ』と答えるだろう。
いかに難解な物理の法則を見つけようと、テクノロジーとして活用するには難解な数式を扱わなければならない。高い数学の知識を持たずして文明社会は作れないだろう。

また、化学者はそれを『化学だ』と答えるかもしれないし、経済学者は『経済学だ』と答えるかもしれない。

結局、様々な学問が集合したところに高いテクノロジーが生まれるのだ。それがイノベーションだ。

『私はIT技術者なので、他の学問は知らなくてよい』
などと言うことはとても馬鹿げたことだ。日本人だから英語を学ばないと言っているようなものだ。
ITに関連した仕事はこなせても、その先に進むことは出来ない。


私は大学院時代に共同研究先の企業や大学から有機半導体を作るための高分子材料などをもらっていたことがある。
私にはそんな高分子を合成することは出来ない。

だが化学者たちもまた、自分の作った高分子材料により作られた有機薄膜太陽電池がどんな物性を持っているのかを知ることが出来ない。

互いに協力しあって明日のテクノロジーを作っているのだ。

その際、物性を調べる上でもらった高分子の最低限の化学的な知識を知る必要がある。その上で物理学的な視点で考察を述べさせてもらった。
また、化学者も物性を調べてもらっても、物理に関する知識が全く無いため、内容が理解できないでは話にならない。
より良い高分子材料を得るために、互いが互いの学問をある程度知っておく必要があった。



私も学生時代には量子力学を学んでいた(量子コンピューターの理論はわからないが…)。
シュレディンガー方程式C#を使ってイノベーションを起こせと言われても何も思い付かない。
しかし、情報技術やプログラミングを学び続けていくうちに、かつて学んだ(もしくはこれから学ぶかもしれない)物理学の知識により、新たなイノベーションが起こせるかもしれない。

それが、情報系出身でないITエンジニアである自分の強みであると思っている。

私の中の物理学はまだまだ生きているのだ。

大学の役割とは

先日、大学院の時に所属していた研究室の発足20周年記念パーティーがあった。

この前の札幌出張で、院生の頃に学会で札幌へ行ったことを思い出し、みんなに会いたいな~と思っていたところだったので、今回の再開をとても楽しみにしていた。

この頃の仲間とは、何人かで飲みに行くことはあったけど、関西から遠方に就職した同期や先輩なんかには長らく会っていなかった。

久々の再会はとても嬉しかったし、みんなと昔の話をすると、学生の頃に戻ったみたいでとても楽しかった。

また、研究を頑張ってる後輩たちの話を聞くと、そんな後輩に昔の自分が重なって、後輩にも昔の自分にも負けてられないなと思えた。


私にとって、大学時代の研究室とはとても大切な場所である。

それは楽しい思い出があったとか、みんないいやつだったから、とかそんなレベルの話ではない。

エンジニアとして生きる上で、原点となる全てが詰まっている場所だったからである。

大学の研究室は何かを売ってお金を儲けているわけではない。そういう意味でメーカーとは異なる組織である。

しかし組織に属し、上司から与えられる仕事をこなすという点では同じだ。

研究テーマを与えられ、解決のための道筋や手法を自ら考え実践する。

そのために技術を学び磨く。

実験をして得られたデータを分析し、考察を行う。繰り返される実験と考察。
上手くいかないことの方がはるかに多い。

実験結果と考察を教授へ報告する。また他の学生とディスカッションを行うこともしばしば。時には激しくぶつかることも。

研究がようやく形になり始めると、資料にまとめる。それらは研究室内向けの報告書であったり、論文であったり、学会発表のスライドであったりだ。

こうして一つの仕事をやりとげていくということを学ぶのだ。


よく、新卒の新入社員は即戦力にならないという嘆きを聞く。

仕事上の技術的なことに関しては、確かにそうかもしれない。

実際に自身の行っていた研究をそのまま(またはその内容を使えるような)職に就ける者はごく限られた一部だ。
それゆえ、『即戦力』になる学生の確保はどのメーカーにとっても採用活動の中で最優先事項の一つだろう。
(私も就職活動をしていたとき、とあるメーカーのリクルーターから『即戦力としてうちの太陽電池部門に是非来て欲しい』と言われたことがある。)

だが、そういった学生の確保は容易ではないだろう。
本当にその道を極めたいのであれば修士でメーカーに行かず、ドクターへの進学を考えるだろう。

そもそも上で述べたように、活動の目的はメーカーと大学とで本来異なっているのだから、大学で行っていた研究をそのままメーカーで行うということは無理があるのだ。


『学部時代に専門に関する基本的な知識を学び、研究室配属後にそれらを用いた研究活動を行う』

大学におけるこの一連の活動は、紛れもなくエンジニアとしての基礎を作り上げていると私は思う。

私のように、大学時代の専門とは全く異なる部署に配属されても、上記の経験があるから、新たな分野であろうともエンジニアとしての土台を築いていけるのだ。


私は仕事で行き詰まったときや辛いときなどは、そっと目を閉じる。そして自分の原点である大学院の研究室へと帰るのだ。

人生最大の報酬は知的活動によって得られる

『人生最大の報酬は知的活動によって得られる』

キュリー夫人の言葉だ。
放射線の研究における彼女の業績は言うまでもない。
物理学者として大好きな研究に明け暮れ、後世に大きな影響を与える業績を残し、ノーベル賞まで受賞した彼女は、かつて物理学者の卵であった私にとって(私も院生の頃、有機薄膜太陽電池の物性について研究する、れっきとした『物理学者』だった)憧れの的だ。

学問をするということは、知識の量が増える。そうすれば広い見識で物事を考えることができるようになる。
ただし、これらはベースに過ぎない。
得た知識をもとにどのような発見をするか、どのようなモノを開発するかというのは研究者(もしくはエンジニア)のsenseによる。

これは私の持論だが、senseはある程度後天的に鍛えることが出来ると思う。
日々の些細なことに対しても、常にアンテナを張り巡らせて観察と考察を行う。
この積み重ねをやっているかいないかで、いざ研究(もしくは開発)の場に直面したとき、発想が大きく異なる。

こうした知的活動によって大きな功績を残すことは言い表せない幸福感に包まれるであろうことは言うに及ばない。


就職を機に私は研究者からエンジニアになった。
自由な研究の場を提供してくれる大学の研究室から、メーカーの開発部へと所属を移した。

そこにあったのは官僚主義であった。
官僚主義の会社が必要としていたのは知的活動を行うエンジニアではなく、笑顔で何でも言うことを聞く労働者であった。

少し前のエントリーでも書いたが、会社に入り知的活動を行う機会などまるでない。

今の部署に配属になり、プログラマーとして生きていこうと決意した。
それからプログラミングを勉強しているが、それを活かす場など与えられない。
『ソフト開発をやらせて欲しい』
という主張は
『どうせまだ出来ないだろ』
と一蹴される。

年度が変わり、仕事内容も少し変わりそうではあるが、この先どうなることやら。
エンジニアとしてのキャリアパスについて日々思い悩む。


今日は少し早く帰れそうなので、帰ったらJavaで作りかけているプログラムの続きを書こう。

札幌出張

この週末、4/6~7で札幌に出張へ行って来ました。

僕の部署はざっくり言えば、自社製品のIOT化を行うところで、今回は札幌にあるお客さんの施設に入れている設備に、IOT用の装置を設置に行くという仕事内容でした。
(営業さんだけでは不安なので開発部に作業してほしいとのことでした。)


装置の設置作業事態はお客さんの施設に何の影響も無いはずなのですが、念のためにと施設が停まってる深夜に作業することになりました。

そのため作業スケジュールは

6日 : 昼に伊丹空港出発し、札幌入り。晩御飯と休息をとって23時半に現場へ向けて出発。朝方に作業が終了し、ホテルへ戻る。
7日 : 起きて帰るだけ。

という感じ。6日のスケジュールを考えるとテンションは下がりましたが、7日は帰るだけなので夕方の飛行機を予約して、少しゆっくりしてから帰る予定にしました。


6日夕方に札幌入りして少し街を散策していると
『なんで今から仕事なんだよ~』
とやはり憂鬱な気分に。
サッポロビールを飲みながらジンギスカンでも食べて、その後はホテルへ帰って寝たかった(笑)

そういうわけにもいかず、味噌ラーメンを食べた後はホテルで少し仮眠をとり(寝坊が怖くてほとんど眠れなかった)、現場へ向けて出発しました。

今回の作業は1年間メインでやって来た仕事でしたし、同様の作業をする別の現場も経験してましたので大きなトラブルもなく27時過ぎに終了。
帰りに一緒に行った技術営業の課長さんからラーメンとビールを奢ってもらい、ホテルへと帰りました。

というわけで、仕事はこれにて終了!笑
今日(7日)はフリーの1日!何をするのかは事前に決めていました。


実は札幌に来るのは今回が2回目なんですよね。
約2年半前、秋の応用物理学会が北大で開催された際に、学会発表をするために札幌へやってきました。

研究室の仲間みんなで来ているので、当然夜はラーメンやジンギスカンを食べに行ったり、学会の合間や飛行機までの時間に札幌をぶらぶらしたりしました。

今回は1人で来て1人で帰るわけですし(技術営業の課長さんとは現地集合現地解散)、時間も限られてるのでその時にみんなと行った場所を巡りました。

テレビ塔に北海道庁、時計台にすすきのの街。

1人で来ているのに、その当時の事が思い出されて、当時の仲間とわいわいしているような気持ちになり、なんだか懐かしくてたまらなくなりました。

みんな、元気にしてるかなぁ。

同期が会社を辞めた

先日、同期が会社を辞めた。

会社に入れば誰しもが経験することだろう。

私の代はここまで、まだ誰も辞めていなかった。

あるものは
『俺達の代は優秀だな』
と語り、またあるものは
『誰が最初の1人になるかな』
と予想したりしていた。

彼の配属は東京で、京都にいる私はもう長らく顔を合わせていない。

彼の真意はわからないが、配属先(営業)がなかなかの激務で病んでいたと風の噂で聞いた。

彼の退社を聞いたとき、私は心の奥で少し
『羨ましいな』
と思った。

その真意は簡単だ。なぜなら、私も会社を辞めたいと思っていたから。

もうすぐ入社して丸一年になる。私は研究を捨て、就職したことを『後悔』以外のなんという言葉で表せばよいのかわからない。

会社の何がそんなに気に入らないのか。

仕事が面白くない、
金曜日の退社後は最高に幸せで日曜日の夜はこの世の終わりのような気分になる、
性格に難がある(馬が合わない)先輩がいる、
会社の体質が古い、

挙げればきりがない。

しかし、何が一番嫌なのか。その答えは明白である。

技術者として会社に入ったのに、技術を使った仕事があまりにもないのだ。

私に与えられる仕事は、派遣の女の子をやとってやらせればいいような、いわゆる雑務ばかりである。
雑務をこなしてくれる派遣の女の子をバカにしているわけではない。
それも大切な仕事である。
それをやらないと会社が回らない。

私が言いたいことは、私は技術者である。自分が全く携わってないプロジェクトに関する伝票を処理をするために大学院へ行って研究をしていたのでは無いのだ。

毎日毎日雑務の山を淡々とこなす。
当然、新たな技術などほとんど身に付かない。
そのくせ、時間はかかり残業ばかりの毎日になる。
何とか与えられた雑務の大半をこなす頃には新たな雑務が大量に降りかかってくる。


入社して以降、大した教育も受けていない。
やれOJTだ、仕事は手を動かして覚えろだ、などと新人研修をほとんどやらなかったくせに、実際与えるのは自分達のやりたくない雑務ばかりではないか。

そこに技術があったとしても、技術の深いところなど誰も教えてはくれない。

このままでは技術者として死んでしまうという危機感しかない。



私の会社は超大手ではない。

トヨタ三菱重工業などの、いわゆる超大手と言われている会社からすると資本金も桁が違うし、中小零細、町工場のようなものだと思う。

それでも、会社の規模的には大手に分類され、
保険の営業マンからは
『良いところへ勤めていらっしゃいますね。』
と言われ、マンションの営業マンからは
『お兄さんの会社ならローン組放題ですよ。』
などと言われる。

それゆえ、一応『大手企業』に就職したという安心感と慢心から、技術者としての自分の価値を高めようとしている人がなんと少ないことか。

そして若手に仕事を奪われる恐怖から、大した教育を与えず、面倒な雑務ばかりを『教育』としてやらせる。

結果、若手は仕事が楽しいと感じなくなり、技術が身に付かない焦りとストレスで日々思い悩むことになる。

自己採点

今日QC検定の基準解答が出ていたので自己採点してみました。

手法編: 45/49
実践編: 43/51
合計: 88/100

手法編での失点は、○×のとこで一問程度かなと思ってたので、4問も間違えていてショックでした。

実践編ももうちょいいけてるかな~っと思ってましたが、8問も間違えているとは…(笑)

(ひそかに)成績上位者の表彰を目指してましたが、お話になりませんでした!情けない!笑

ただ、とりあえずマークミス等なければ合格してそうなので一安心です。

これで基本情報技術者の勉強に専念出来ます。宣言通り早速昨日参考書も買ってきましたし。

下克上受験

今回の記事のタイトルは、ご存知の方も多いと思いますが、今クールにやっていた阿部サダヲのドラマ名です。

このドラマは、中卒の父親が自分のような人生を歩ませたくないと娘を日本一の難関女子中 桜葉学園(おそらく桜蔭のことかな?)に合格させようと、自らが勉強を教えて中学受験させるというストーリーです。

僕は普段あまりドラマを見ませんが、僕自身中学受験を経験した者として興味があり、このドラマを見てみようと決めていました。
この話、どうやら実話らしいですね!
これを機会に僕の受験話でも書いていきたいと思います。


僕は大学、大学院生時代にバイトで家庭教師をしていましたし、その中で人に何かを教えることが楽しいと思っていたため、将来我が子には高校入学まで勉強を教えたいな~と思っていたいました(さすがに高校内容はもう無理です笑)。

そのため父親が自分で教える、という内容にも興味がありました。

ドラマはいいリズムでストーリーが進み、また実話を元にしているだけあって、中学受験に挑む親子の葛藤が上手く描かれていたと思います。

特に最終回の1つ前の回、三学期に学校を休むシーンや受験本番の描写なんかを見ていると昔の自分を思い出して感情がたかぶり、泣きそうになりました。

結果、志望校に落ちてしまいましたが、レベルのそう変わらない難関校に合格できたみたいでよかったです。
これから大学受験に挑まれるとのことで、志望校合格を目指して頑張って欲しいですね!



僕自身、大した学歴を持ち合わせてる訳ではありません。
だから学歴の話が大嫌いです。いわゆる学歴コンプというやつです。

僕が中学受験をしたきっかけは、ドラマと同じような感じで、僕の両親はともに、大学受験の頃に浪人をしてまで志望校を目指したが、結局志望校には合格できず、我が子にはなんとしてもいい大学に行って欲しい、そのためにまずは中学受験で良い中学に入れたい、という思いがあったからだそうです。

中学受験をするために勉強を初めた頃は京都にある某有名難関私立校2校のうち、どちらかに受かって欲しいという両親の希望もあり、漠然とその2校を目指していました。
しかし、小学生の頃の僕はとりあえず頭が悪かった。いや、頭が悪かったと言う言い方は正しくないのかもしれません。
とにかく勉強しなかった。部屋に籠って勉強をしているフリをしては漫画を読んだりしてました。
それでも、毎週休まず塾に行ってノートを取り、最低限の宿題はこなしていたため、成績はそこまで悪くありませんでした。
(宿題といってもノートを見ながら問題を解いて○×をつけ、間違えたところは赤で答えを書いて終了、といった何ともいい加減なものでした。それでは何も身に付きませんよね。笑)


塾では入塾した小4の頃からずっと4クラスあるうち、上から2番目のクラスにいましたし、先生達からも
『今の成績なら、6年生になってからの追い込み次第で志望校は合格圏内ですよ!』
と言われていました。

しかし、その6年生が近づいてきた5年生の冬に成績がめちゃめちゃ落ちました。
理由は簡単で、5年生の頃から真剣に勉強を始めた子達の成績が上がり初めたからです。

その結果、僕は1つ下のクラスに降格という屈辱を味わいました。
さすがに悔しかったこともあり、少し真面目に勉強を始めました。

ここから大学受験に至るまで、僕にとって大きな壁となっていた問題に初めてぶつかりました。

それは、
『成績を上げるためにはどうやって勉強をすればいいのか、その勉強法がわからない』
ということです。

これは今、過去を振り替えって
『あの頃はどうやったら成績が上がるかなど何も考えず、闇雲に勉強していたなぁ』
と思うことから、後付けで言っていることであって、その当時に『どういう勉強法を取り入れたら成績が上がるか』など考えてもいませんでした。

とりあえず闇雲に毎週与えられる宿題を少しだけ真面目に解きました。

マンガやドラマで良くある、『努力すれば報われる!』ということだけを真に受け、何をどう頑張るかというプロセスを全く考えず、とにかく努力すれば賢くなれると思ってました。

それでも少しだけ勉強に対して真面目に向き合い初めた分、成績はV字回復をし、小6の春には元々いたクラスに昇格することが出来ました。
これに安心したのもつかの間、夏前には再び大きく成績が落ちてしまい、再び降格がほぼ確実な状況になってしまいました。
僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまい、困り果てていました。

その時、母が
『一度環境を変えてみてはどうか』
と別の塾に移ることを勧めてくれました。

元々いた塾には小学校の友達もおり、再度降格する辱しめを受けるくらいならと塾を変えることにしました。

しかし、新しく行った塾は灘中などの合格者を多数出している塾で、レベルが高いことで有名でした。

実際入塾してみて、周りのレベルがめちゃめちゃ高いことや前の塾では考えられないほど先生が厳しいこと(とりあえずめちゃめちゃキレる!)に驚きました。

僕は怖じ気づき、恥ずかしくてそれまでの志望校の名前など出せなくなり、あっさりとワンランク下の中学に志望校を変えました。

また先生に怒られたくない一心で初めて自分なりに成績を上げる方法を考えました。

それが
『とりあえず丸暗記する』
というものでした。

子供の考えた浅はかなことでした。

とりあえず宿題を行い、片っ端から解法や答えを覚えていきました。

そのおかげか、小テストの成績は驚くほど上がりました。もともと社会が得意だったので覚えることは嫌いでは無かったみたいです。

模試の成績も少しだけ良くなり、塾の先生には
『(ワンランク下げた)志望校には十分合格可能』
だと言われました。

しかしながら、志望校にはあと10数点足りず、中学受験に失敗。

丸暗記するだけでは根本をしっかり理解しているわけではなく、ただの付け焼き刃だったのでしょうね。

結局、練習で受けた地元の私立中学と塾の先生から勧められた京都の私立中学しか合格出来ませんでした。どちらも『賢い』と言われるような学校ではありませんでした。

僕はどの中学へ行くのか選択を迫られました。
そこで下克上受験のかおりちゃんと同じく、僕も
『みんな受験したこと知ってるのに今さら公立になんて行けない 』
と思いました。

そして
『京都の私立ならみんなもわからないし大丈夫だろう』
と母校となる中学への入学を決意しました。

僕の母校は特進クラスのようなものを作って、進学実績を上げるために必死になっている学校でした。実際その努力により、東大や京大にも片手で数えられる程度は合格していました。
しかしながら、京都の人たちには公立高校の滑り止め私立というイメージが強く、名前を出せばバカにされるような学校だと思います。


中学入学にともない、僕は塾の中学部へそのまま上がり、高校受験での難関私立への挑戦を決めました。

中1からしっかりと塾のカリキュラムに乗って勉強を行い、また一応は私立中の授業を受けていたため、成績は基本的にずいぶん良かったです。

優秀な子達は中学受験で難関校に入学するため、実際ライバルはほとんどいなくなります。それもあり、僕は小学生の時は夢のまた夢であった塾の模試の成績優秀者にも名前が載ったりしました。
中学の成績も上位10%には常に入っていました。

そんな状況において、塾の先生からも
『小学生の頃、諦めた志望校の高等部になら確実に合格できる』
と言ってもらいました。

しかし、思春期真っ只中の僕には、その高校へ行くには大きな問題がありました。
その高校は校則が厳しく、頭髪は刈り上げか丸坊主にする必要があったためです。

塾の成績が良かったこともあり、
『今さらあんな学校こっちから願い下げじゃ。もっと偏差値の高い、自由な校風の学校に行ったるわ。』
と志望校を別の高校にしました。

そしていよいよ中3になりました。中2までは塾でも中学でも同じような内容をやっていました。
しかし、塾では高校受験に向けて本格的に受験勉強が始まり、中学では高校の単元の授業が始まりました。

そのため、二足のわらじを履くのはかなりきつかったですが、僕は必死に食らいつき、何とか成績をキープしました。

そして迎えた高校受験。

僕は志望校にあと3点足りずに不合格となり、無様にもそのまま母校の高等部へ進学することになりました。

受験直後はかなり絶望していましたが、いざ高校生活が始まればそれに慣れてしまい、楽しく過ごすことが出来ました。

部活や彼女や勉強、趣味など普通の高校生らしい充実した日々を送り、僕は結果この高校に来て良かったと思っていました。

正直今もその思いは変わっていませんし、母校のことは好きです。

勉強の方はと言いますと、高校入学当初から模試も生活が良く、定期テストも毎回しっかり勉強して常に上位にいました。

特に中学時代得意だった数学は高2の夏頃まで偏差値は70近くありました。

この頃からぼんやりと志望校を京都大学に決めていました。

やっぱり関西の人間にとって京大は憧れでした。阪大、神大には見向きもせず、
『やっぱり行くなら京大やな』
とぼんやりと考えたいたのです。

中学受験、高校受験を失敗していながら、高校入学以降の成績が良かったこともあり、自分にとったら、本気を出せば京大合格なんて大して難しいミッションでは無いように感じていました。

しかし、高2の秋の模試で、突如僕の成績は暴落。

定期テストの勉強は頑張っていましたし、その結果毎回上位の成績を取っていましたが、復習は一切やっておらず、テストが終わると内容はほとんど忘れてしまっていました。それでも模試の成績が良かったのは、中学時代の貯金があったからです。

その貯金が底をついたとき、僕の成績はとんでもない状態になっていました。

僕は焦って駿台に入塾し、死に物狂いで勉強を始めました。

そこで困ったことが、現役時代の大学受験の予備校の授業は自分で選択するため、高校受験までの塾のように入塾してカリキュラムに乗っていれば大丈夫!というわけではなかったことです。

そこで僕は僕なりに京大合格に向けてのプランを立てました。
まず受講する授業は苦手だった英語と人気講師のいた化学を選択しました。

そして毎日のように自習室に籠っては勉強に打ち込みました。

しかし、ここでも勉強法に『とりあえず目の前の問題を解きまくり、内容や解法を暗記する』というおろかな策を取ってしまいました。

暗記するにしても、どうすればより暗記できるかなどは一切かんがえず、ひたむきに量をこなせば覚えるはずだ!と楽観視してました。

しかし、この手法で成績を爆発的に上げるには大学受験は勉強範囲が広すぎました。

結局京大は2回ほどD判定が出た以外は全てE判定で、担任に神大などへの志望校変更を勧められるなか
『落ちたら浪人する覚悟はできている』
と強引に説得して京大に特攻。

見事に散ったのでした。

京大以外は考えていなかった僕は京大の合格発表の夜には両親に浪人したいことを伝え、許可をもらいました。
そして次の日からまた受験勉強を再開しました。

すると浪人生の春、ついに努力の成果のようなものが出てきました。

駿台の浪人生だけの試験では校舎の京大志望の中で5位、得意だった物理に至っては1位という成績を取ることができました。

また、5月の模試では初めて京大A判定を取ることが出来ました。

駿台の授業は学校のように時間割りが決まっているため、自分でいろいろ考えて勉強していた現役時代よりも受験勉強自体は楽に感じました。

その後、現役生の追い上げもあったのか、模試の判定はBとCを行き来していましたが、センター試験の点数もかなり高得点を取ることが出来、駿台のチューターからは
『自信を持って京大を受けてこい』
と言われました。

そして迎えた京大本番。

僕は数学の試験でほとんど完答することができず、結局その穴を最後まで埋めることは出来ませんでした。そして2度目の不合格。

そして、さすがに二浪は嫌だったため、受けていた中期日程の大学へ入学することになりました。

結局、僕は
『良い中学に入学させて、現役で志望校に合格して欲しい』
という両親の願いを何一つ叶えることが出来ず、ただの親不孝者となってしまいました。

両親や受験を影でサポートしてくれ、応援してくれていた祖父母には今も申し訳ない気持ちでいっぱいです。

浪人時代の僕はかなりストイックでした。

彼女も親しい友人も作らず、食堂などでたむろしている輩を横目に1人自習室に籠って勉強しました。

しかし、蓋を開けばそうやって彼女や友人と食堂でたむろしていた輩が京大に合格して僕は不合格という結果になりました。

この時、僕は理不尽だと感じ、そこで初めて自分のこれまでの勉強方法の何がダメだったのか真剣に考えました。

そこで効率を考えず闇雲に勉強をしていた自分に初めて気がつきました。

あれだけの時間勉強をしたのなら、もっと成績を上げる方法があったと思います。





リンカーンの言葉に
『もし8時間、木を切る時間を与えられたら、そのうち6時間を私は斧を研ぐのに使うだろう』
という言葉があります。

正にこの言葉は僕の受験失敗に対して送る言葉だと思います。

中学受験も高校受験も、そして大学受験でさえも僕は木を切ることに夢中になって、切れ味の悪い斧を使い続け、結果タイムオーバーになってしまいました。

僕の両親は決して裕福な訳でもないのに、僕のために勉強する上で最高の環境を与えてくれたと思います。

塾では各科目に対して最高レベルの講師が素晴らしい授業を与えてくれました。

しかし、どのような思考で勉強を行えばよいか、そのプロセスを教えてくれる人は一人もいませんでした。

僕は自分の不合格を誰かのせいにしている訳ではありません。
それらは自分で考え、自分で身に付けなければなりません。
僕はそれらに気がつくのが遅すぎました。

結果、難関私立高校にも京大にもあと一歩と迫りながら、
『公立高校の滑り止め私立から、宮廷の滑り止め大学に入学した平凡な学歴の男』
となってしまいました。


先日、彼女と彼女の友人、そしてその旦那さん(彼女の友人は既婚者)とご飯に行きました。
彼女の友人の旦那さんはずっと京都に住んでいた人で、今は中学教師をしています。そして、僕の母校が京都の私立だと言うと、学校名を聞かれたので答えました。すると、

『あそこめちゃめちゃええ高校やね!』

と言ってくれました。そんなこと言われると思わなかったので僕は少し嬉しい気持ちになりました。しかし、その直後に

『とりあえずめちゃめちゃ合格出してくれるから、教え子たちの滑り止めに最適やねん。てか、あそこから国公立行くってめちゃめちゃ無理したんちゃうん?受験勉強大変やったやろ?』

と失礼極まりない発言をされました。

こういったら何ですが、自身も大した学歴は無く、私大の体育科か何かを出た後に中学の体育教師になり、自分でも『頭の方は中学生の方が賢い』といって笑いを取るような男でした。

そんな男に僕の大学入学までの19年間の努力を全て否定された気持ちになり、怒りがこみ上げてきました。

彼女と彼女の友人が必死にフォローしてくれましたし(彼は悪気があって言っているわけではなく、少し抜けているとこがある、と。それで許す理由にはならんと思いますが…(笑))、僕も大人なので怒鳴ったりしませんでしたが悲しい気持ちになりました。

しかし、これが僕の置かれている現実でした。

僕はドラマで阿部サダヲが言っていた
『自分のキャリアについて聞かれるたび、中卒なのは家庭の事情だと説明しないといけない。』
という言葉は痛いほどわかります。

今回のように学歴の話になるたび、
『母校の高校は決して偏差値の高い高校ではない。ただ、もともと目指していた難関校にあと3点で落ちてしまい入った高校だ。大学だって京大に受かりそうだった。本番の数学がもう少し自分に合った問題だったら合格していた。』
と言ってきたからです。


もし、これから受験に向かう中学生、高校生諸君が何かの間違いでこのブログを見ていたら、僕のようにならないためにも今一度自分に問うて欲しい。

君は切れ味の悪い斧で必死に木を切ってはいないか、と。